穂竜 榊氏 2015年 @

穂竜生誕の地を訪ねて

2015年残暑も和らぐ初秋に、「穂竜」の創始者、榊誠司氏(以下、榊氏)にお会いするため、兵庫県赤穂市を訪ねた。この地で榊氏は、1969年(昭和44年)頃より竜眼(出目オランダシシガシラ)を飼育し始め、1980年(昭和55年)頃に「穂竜」の第一代となる青文柄の竜眼が出現、また1994年(平成6年)には現在の姿と変わらぬ特長を兼ね備えた「穂竜」が新しい品種として全国に知られることとなる。今回はその「穂竜」についての魅力にふれてみたいと思う。 「穂竜」という魚はいうなれば、『青文柄の高頭出目パール』 と説明すると想像しやすい。日本で創りだされたその個体からは中国金魚の派手さがなく、決して琉金やらんちゅうのような華やかさがあるメジャーな品種とはいえないながら、純和風な地金魚として親しみやすく愛らしい品種だ。パール鱗のもつ可愛らしさが一番伝わってくる品種であることは間違いないだろう。

ここが榊氏の飼育スペースであり穂竜愛好会の本部だ。

野菜畑の一角に飼育スペースを設けている。

 

二歳 穂竜メス

二歳 穂竜メス

 

 

青空のもとで稲穂が実った黄金の色合いをイメージした「穂」の字と赤穂市ゆかりの地金魚にしたいとの想い、また中国で出目をあらわす竜眼の「竜」の字を組み合わせ「穂竜」と命名。まさしく「名は体をあらわす」の通り、澄み切った青空をイメージさせるような銀と一面に黄金輝く稲穂の金、左右対称に揃った出目、目幅が広く頭のこぶは顔を邪魔せず、愛嬌のある尾の振り方は「穂竜」の名にふさわしい。

当歳 穂竜

当歳 穂竜

 

当歳 穂竜

当歳 穂竜

 

 

新しい品種の創作

昭和40年代後期の日本は日中国交正常化の流れで様々な文化が広がり、中国金魚も当時としてはかなり高価なペットとして輸入されていたと聞く。榊氏は静岡県清水市の金魚店まで足を運び「竜眼」=【出目オランダシシガシラ】の見たこともない姿に一目ぼれし、数匹を入手。その個体群から実に約11年の歳月で青文柄の出目オランダシシガシラが出現したという。この青文竜眼の出現こそが榊氏の長い金魚人生の第一歩だったのかも知れない。1985年代(昭和60年代)に入り中国から新しい金魚がさらに輸入されるようになると、【高頭パール】の存在を知っていた榊氏は、青文竜眼との掛けあわせを目的に3匹を飼育し始め、ようやく現在の姿に近い「穂竜」が出現する。実に30年近くの歳月をかけて「穂竜」という品種を誕生させている。さらに1994年(平成6年)の第一回金魚日本一大会その他の部では、当歳魚・親魚ともに優勝を手にしている。当時、お披露目といった感じで自ら作出した品種がどの程度、世間に通用するのか手探り状態での出陳だったに違いない。しかしながらこのときの経験が拍車をかけて創作意欲を高めたことは確かである。

一度は途絶えかけた「穂竜」は2001年(平成13年)〜2003年(平成15年)にかけて「高頭キャリコパール」や「黒竜」との交配によって血統を維持することができたと話す。そのころに亜種(現在は《変わり竜》という)であるキャリコ柄の高頭出目パールが出現し始め、榊氏はこの「穂竜」「変わり竜」2つの進化を目指すべく繁殖を重ねていくこととなる。

 

幻の金魚を幻にさせなかったその偉大な功績の影に、当社が輸入した「高頭パール」が使われたことが語られ始め感慨深くなったことは言うまでもないが、何より「穂竜」の原点に携わることができたことが改めて、深い縁で結ばれているように感じた。 また、若き日の私自身が榊氏へお渡しした「高頭キャリコパール」、「黒竜」が「変わり竜」への進化に繋がることとなったことは、非常に運命的な係わりと言わざるを得ない。「変わり竜」へと姿を変えていった「高頭キャリコパール」や「黒竜」に再び逢えたと思うとやはり、涙腺が緩むほどの時が流れたのだと実感した。

 

「想像している最高の穂竜はまだ完成されていないんだよね。」無邪気な笑顔で話す御歳78歳の榊氏は、「現段階では8合目ぐらいまでは来ているように思うけれども、理想の穂竜まであと何年かかるのかな?」 と客観的で冷静な分析を話す一方、その笑顔とは裏腹に「もしかしたらこの先も完成せずに追い求めていくほうが楽しいのかも」、そんな笑顔でもあったような気がしてならない。

 

二歳 穂竜メス

二歳 穂竜メス

 

 

 

 

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